2007年12月30日日曜日

人間失格と科学

会社の人から「日本文学を読め」ということで手渡された太宰治の「人間失格」を今更ながら読んだ。
人間失格 (新潮文庫 (た-2-5))
太宰 治
4101006059

人間に恐れや不信感を頂き、自分のもっとも醜い部分をえぐりだすように書かれているこの小説は、それでも人間を信じようとし、その過程で自己崩壊していく作者本人の様子を描いている。
「恥の多い生涯を送ってきました」という文章で手記は始まり、最後は自分に対して人間失格を言い渡すことになるわけだが、「人間らしさ」とはなにか?ということと同時に、世の中の仕組み、あるいはあるべき姿を考察する「科学」について考えさせられた。

太宰治のように自身の内部をえぐりだし、それを見つめて言語化する営みはシステムとしての人間、あるいは人間が活動する社会システムを理解するための一つの方法といえる。
太宰治は人間世界を俯瞰しているわけではなく、文字通り命をかけて、人間世界における世の中の有り様をそのシステムの真っ只中で苦悩する自分と照らし合わせて記述している。
というか文学自身がそもそもそういう性質を持つものであり、人間の社会システムあるいはシステムとしての人間自身を理解する「科学」なのかもしれない。
で、文学とはあまり関係のないと思われる他の科学の分野でも"文学のような"方法論が求められると思う。

たとえば新古典経済学 (経済学は科学ではない、と言われたりもするがとりあえずそれは置いておいて)では物理学で用いられている数式をたくさん用いて、トップダウン的に経済現象を説明しており、人間の感情は一切排除されている。
そこでは、人間が顕微鏡で細胞を調べて細胞に研究するように、対象となる経済システムはそのシステム自体からは遠いところから俯瞰されている。
しかし、現実世界の人間が活動しているシステムでは実際に友情、恋、妬み、信頼、裏切りなどの様々な感情が渦巻いており、経済現象もそのようなシステムの行動結果として起きるものである。
結局そのようなシステムを理解するためには、(太宰治のように)我々自身がそのシステム自身に飛び込んで、現象を記述するなり理解する必要があり、システムを俯瞰するだけでは不十分なのではないだろうか。
システムの内部に飛び込んだ場合の記述自身がすさまじく難しいわけだが(ただし、行動主体の内部構造にも着目した行動経済学はこういった試みのひとつと考えられる)。

今まではシステムを俯瞰して記述するだけで十分理解することができた分野であっても、同じことが言え、経済学のみならず、工学、心理学、あるいは自然科学に対しても「文学のような」方法論が今後求められるのかもしれない。