すごい。。
http://www.yomiuri.co.jp/science/news/20080814-OYT1T00613.htm?from=main1
ロボットのセンサーが物理的に何かを感知したときに電気信号をねずみの脳におくることで、ねずみの脳が学習し、ロボットが壁に激突することを回避するようになるらしい。
2008年8月16日土曜日
ねずみの脳で学習するロボット
2008年8月5日火曜日
Google street view in Japan
かなり久しぶりの更新。
前更新してから、北京、サンクトペテルブルク (ロシア)、トロンハイム (ノルウェー)と海外に行ったり、面白い本を見つけたり、仕事が大変なことになったりと、色々あってアップデートしておきたいことがたくさんあるんだが、とりあえず今日はこれ。
http://www.google.co.jp/help/maps/streetview/
日本でもついにローンチで、色んな場所にいけます。
昔住んでいた場所や以前通ってた場所など巡ったりすると、懐かしくなったり、新たな発見があります。
とりあえずやばい。
2008年5月22日木曜日
超私事 - ある休日の過ごし方
この間の日曜日は大学からの友人の家に友達と押し掛けた。
1年ぶり。
ちょうど1年前は赤ちゃんがまだ生まれたばかりだったんだが、早くもその子は一才。
時の流れの速さを感じる。
最初会った時は緊張してたのか、もじもじしてたんだが、段々慣れ始めてはしゃいでいた。
しかも心なしか最初会ったときよりかやたらと足で立って歩き回っていた気がする。
なんでも赤ちゃんってたくさんの知らない人に会うと脳の色んな部分が刺激されて脳が活性化するらしい。
まさにポテンシャルの固まりです。
ていうかほんとかわいい。
まじで。
一ヶ月前、自分の家に友達が赤ちゃんを連れて一緒に遊びに来る、ということで一才の誕生日として木琴を買って待ち構えて、木琴と赤ちゃんを撮りまくることを楽しみにしていたんだが、あいにく天気が悪く、赤ちゃんは来ず。。
(代わりに「木琴とかあちゃん」を撮りまくった笑)
で、今回念願叶って「木琴と赤ちゃん」を撮る事ができました(右は父親ではありません)。
家族の雰囲気もよく、見ていていい気分になれた。
2008年5月5日月曜日
山の概念空間
国立新美術館でやっている「アーティストファイル 2008 - 現代の作家たち」にいってきた。
その展示物の1つに真っ暗な空間に6つのスクリーンを立てて、それぞれのスクリーンで現実や非現実が交錯したような映像を流す作品があった。
その空間にいて映像を眺めているとなんだか不思議な気分になってきて、色々と妄想してた。
このブログのタイトルでもある"move in the field of mountains"もその妄想対象。
以下の図のような事を考えてた(絵心ないです)。
"山を動き回る"ということで、自身を磨き上げて山を登っていく、というような超ポジティブな見方もあるんだが、この概念空間はもっと色々と当てはめることができる。と思う。
- 今自分が何をするのか、という意思決定に関わること。例えば一つ一つの山が、「遊ぶこと」「寝ること」「勉強すること」「食べること」etcに相当。
- ある仕事上のタスクを達成しなければならない。どういうプロセスを経るのか。例えば、山は「自分で調べる」「上司に相談」「同僚に相談」「とりあえず寝かす」etcに相当。
- ある事柄、事件の真相。例えばインターネットの世界では、ある一つの事件についても色々な視点からの意見がある。山はそれぞれの視点に相当。
- デザインプロセス。山は「プロタイプを作る」「仕様書を書く」「誰かに相談」etcに相当
- 解決策をひねる出すこと。それぞれの山は代替案に相当。
- 本を読むということは本の作者の世界を体験するということであり、今までの自分の「山」とは違った山を登るということに相当。
- ニュートンの言葉とされている「Standing on the shoulders of giants」。今までの偉人が成し遂げた成果の上にたって、初めて新たな知見が生まれる、というやつ。(ちなみにこの言葉はニュートンがその時のライバルをバカにする意味で使ったというのを何かの本に書いてあったのを覚えている。Standing on the shoulders of giants. Not yours みたいな感じで)
- 出会いそのもの。色んな人とコミュニケーションするというのは、一つ一つの山を動き回るということに相当するのかもしれない
- その他色々。
全然文章がまとまっていないけど、そういう真っ暗な、非現実的なんだがリアルな空間の中で、空想の世界である山の概念空間について以上のような妄想をしてました。
2008年4月29日火曜日
ある休日
2008年4月27日日曜日
21世紀人@東京ミッドタウン
今日いってきました。
ISSEY MIYAKE がDirectorとして手がけた展示会。
地球の環境問題などによって現在人類が転換期にある中で、「21世紀のものづくりに対して問いを投げかける作品」を展示している。
10点ほど作品があるのだが、特に一番最初にある「ドラゴン」の画は印象深かった。
水墨画のような画なのだがなんとなくぼやーっとドラゴンの姿が立ち現れている。
画はアメリカ人のTim Hawkinsonというアーティストが描いたらしい。
展示会を見終わった後に買ったガイドブックにこの作品について以下のような記述がある。
古来、龍は西洋では「破壊」、東洋では「創造を司るもの」の象徴とされてきた。作家はどんなイメージから、この龍を生み出したのだろう。彼の答えは、意外なものだった。画を描いてるプロセスの中から作品ができあがっていく。
「ドラゴンを描こうと思ったわけではないんです。筆を使った実験をしているうちに、だんだんドラゴンに進化した。つまり、純粋に私の筆から生まれた作品です」
最初から「これ」というイメージがあるのではなく、何となく筆を走らせていたらドラゴンになったらしい。
よくビジネスやスポーツの世界では「結果が全て」と言われるけど、画に限ったことではなく、実は結果に至るまでのこういったプロセスにこそ意味があるのではないのかと最近思う。
そのデザインの対象との対話や、さらにそれに携わる人たちとのコミュニケーションというプロセスを経てものづくりがおこなわれる。
そのプロセスは無限通りあるわけだから、最終的なデザインも無限通りある。
その中からあるデザインが立ち現れ、世に出ることになる。
あるものは社会で受けるかもしれないし、あるものは受けないかもしれない。
そしてそれは最初イメージしていたものと同じかもしれないし、全く違ったものかもしれない。
いずれにしても、デザインを決めるのはプロセスであり、よって「対話」(人-物、人-人)なんだなと。
なんとなく納得。
2008年4月26日土曜日
You are what you buy
街のデパートの壁に張ってあったクレジットカードのポスター。
女の人が背後のフルーツにとけ込んだ感じになって、"You are what you buy."というコピーをのせている。
クレジットカードを持つ必然性みたいなのを表現しているのかもしれないけど、このコピーと画が気に入ったので写メとってみた。
"You are what you buy" とは究極的には、あなたは空っぽであなたはその周りのものによって成り立っている、と言えるし、それはシステムの科学の
一つの行動システムとして眺めると、人間はきわめて単純なものである。その行動の経時的な複雑さは、主として彼がおかれている環境の複雑性を反映したものにほかならない
=>
人間は彼がおかれている環境の複雑性を反映した器である
=>
"You are where you are"
というところにつながるのではないのか、と勝手に脳内変換してみた。
要は「このポスター、おもしろいなー」という話でした。
2008年4月9日水曜日
新年度
社会人になって早くも1年が過ぎた。
この1年間で色んな人と仕事をした。
もう2週間くらい前の話だけど、自分のチームを引っ張ってくれていたエンジニアのリードの人が会社を去った。
イチローはそのプレーでチームの皆を引っ張っていく、というようなことを言われているのをテレビで見たことがあるけど、本当にそんな感じの人。
自分は社会人になる前は研究も主に一人でやっていたし、何人かのチームをドライブしていく、というようなこともなかったけど、その人と間近で仕事することができたのは本当にラッキーだった。
転職先もおもしろそうなところだし、まさにその人らしい選択。
そういう選択ができるのが普通にうらやましいと思った。
隣の芝生は青い、じゃないけど。
新たなシーズンが始まりましたね.
2008年3月10日月曜日
Computer History Museum
Mountain ViewにあるComputer History Museumにいってきた。
その名の通り、コンピュータの歴史を追った博物館。
一見無造作にそれぞれのマシンが並べられているが、見ごたえはなかなかある。
Enigma, Eniac, PC, IBM 360, などなどとさまざまなマシンが陳列されており、教科書でしか見たことがないようなものも置いてあった。
下は、初めてGUIを実現したXerox Altoから始まり、Apple Ⅱ、Microsoft, Machintosh, IBM PCなどなどとPersonal Computerの歴史を追ったラック。
まるで秋葉原のパソコン店みたいな感じに並べてある。
また、下は初めて人間のチェスのチャンピオンに勝ったIBMのDeep Blueというプログラムが搭載されたマシン。
人工知能の教科書などではよく扱われる題材で、もちろん「コンピュータプログラムがチェスチャンピオンを破った → コンピューターが人間の知能に匹敵する力を持ちえた、あるいは超えた」というわけではないが(チェスチャンピオンの考えたプロセスとDeep Blueのプロセスが同じとは限らないし)、人間の知能を理解する、という果てしない挑戦における一つの大きな出来事だと思う。
単なる無機質な鉄の塊としてのマシンを展示しているだけでなく、展示してあるマシンを通してものづくりにおける開発者の熱い思いが伝わってくる、そんな博物館でした。
2008年3月9日日曜日
in Napa part 2
2008年2月25日月曜日
システムの科学 part 2
以前、システムの科学について書いた。
この本のポイントは、
一つの行動システムとして眺めると、人間はきわめて単純なものである。その行動の経時的な複雑さは、主として彼がおかれている環境の複雑性を反映したものにほかならない
ということである。
この記事を読んで再び上の主張や大学の研究で関わっていた身体性認知科学のことを思い出した。
ロボットにある構造的な制約を持たせる「だけ」で、空間に散らばっている物体を収集できるということである。
つまりロボットの有している身体性をうまく利用し、センサーに反応する、という単純な手順をロボットにプログラムすることで、ロボットと物体が散らばった複雑な環境の相互作用を介して、物体収集という知的な行動が創発する。
ロボットにあらゆる情報を把握させ、IF文を用いて複雑な手順をプログラムすると結果的にロボットはずーっと計算しつづけて何もできなくなる、特に複雑な環境下では(人間はこんなことはしない。反射的であったり適当に判断することもあるがそれでうまくいっている部分はある。その意味で人間は単純だ)。
行動主体と環境との単純な相互作用を利用することによって知的な行動が創発する、というのはまさに「デザインとはなにか?」ということに対する一つのキーポイントだ。
このロボットの研究を踏まえると、上のシステムの科学の主張は次のように言い換えることができると思う(もしかして上の主張の言い換えというよりはサブセットに近いかも)。
行動システムは単純で、構造的制約や認知的制約を有しているからこそ、複雑な環境と相互作用することで知的な行動が可能になる
と。
この言い換えた主張を、では実際にエンジニアリングに携わっている身としてどのように捉えることができるか。
それはきっと、
行動主体と複雑な環境との相互作用によって知的な行動、秩序だったなにかが可能になるべく、行動主体と環境とのインターフェースをデザインする
ということになるのだと思う。
つまり創発が起こるべく仕掛けをほどこす、ということ。
「デザインとはコミュニケーションである」とよく言われるがこれもそのとおりだと思う。まさにコミュニケーションとはあなたと私、物体と私、物体と環境、などなどで発生する相互作用に他ならず、デザインとはそのインターフェースを設計することでもあるからだ(商品パッケージであっても空間デザインであっても建築であっても)。
ここでは検索ロボット(行動主体)と複雑なウェブの世界(環境)との相互作用によって知的な行動が創発することは述べた。
では人間とウェブの世界はどうだろうか。
ブラウザを立ち上げて、検索ボックスにキーワードを入力すれば自分の求めていた情報にたどり着けるし、ウェブサイトに張ってあるリンクをたどればおもしろい情報にだとり着くことができる。
そういう意味では「有益な情報にたどり着く」、という知的な行動を仕掛ける現在のインターフェースはなかなかうまくいっているとおもう。
だけどここにまだまだ色々な革新的なことができるのではないのか、という気がしてならない(これだ!というのが今はないんだけど)。
キーをタイプしなくても音声認識だけでたどり着けるとか(この研究は結構進んでいるとおもう)、ブラウザなんていらないとか、実際に手を動かすだけで好きな情報をひっぱりだしたりできる、などなどと(発想が貧弱です)。
グーグルの起こした革命の一つは、「検索ロボットの身体性」を利用し、ページランクという今考えれば単純な手順をほどこすことで検索ロボットと複雑なウェブの世界のインターフェースをデザインすることによってウェブ上の情報をうまく整理したことだ。
次の革命はもしかして人間の有している身体性をうまく利用した、人間と情報(ウェブに限らず)の間のインターフェースをデザインすることに関わっているのかもしれない。
この部分が任天堂やアップルのうまいところなんだよなー。
2008年2月24日日曜日
iPodをつくった男
iPodをつくった男 スティーブ・ジョブズの現場介入型ビジネス (アスキー新書 048) (アスキー新書 48)
大谷 和利
アップルの創業者であり、現CEOのスティーブ・ジョブズとアップルのビジネスについて書かれた本。
ジョブズの極端な人格、プレゼンテーションのうまさ(この本ではロックコンサートに例えられている。今年の初めにMacBook Airが発表されたMacWorldに参加してはじめて彼の生プレゼンを見る機会あったがたしかにうまい。人を惹きつけるオーラがある)、製品開発に注ぐ彼の熱い思いなどが十分に伝わってくる一冊。
アップルは技術はもちろんのこと、製品企画、マーケティングの巧さでも有名だ。
アップルのプロダクトを使うことによって生まれる楽しさ、気持ちよさ、そういったプロダクトとプロダクトを使う人との相互作用から生まれるユーザーエクスペリエンス全体を最高のものにするべく、絶妙なトータルソリューションを提供している。
本書は組織論、プレゼンの仕方、製品開発のいわゆるHow To本ではないが自分の仕事に参考になるヒントがいくつかあった。
中でもキャッチコピー。
本書には「キャッチコピーから見るアップル社」という項目があり、そのひとつとしてiPod Shuffleの"Life is Random"というキャッチコピーが紹介されている。
iPod ShuffleはiPod製品ラインアップの中では最も価格が安いmp3 player。
アップルは液晶ディスプレイや超小型ハードディスクを採用せずにShuffleの大幅コストダウンを狙った。
"Life is Random"というキャッチコピーはその欠点を逆手にとってShuffleを使うことで得られる喜びやそれを使うことの必然性を表現している。
アップルが製品開発においてどのタイミングでこういったキャッチコピーを作っているのかはわからないが、キャッチコピーはプロダクトができた段階で「どのようにしてユーザに訴えかけていくのか?」ということを表現するためのものだけではなく、製品開発の初期の段階から考えていく必要があると思う。
要は製品コンセプトを表現するものとしてのキャッチコピー。
そんなことはどこでも言われていることだし、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、根っこの部分がしっかりしていないと後々困ることになるはずだ。
製品開発中には実際に色々な難しい状況に遭遇するし、迷うこともある。
その時にこういったキャッチコピーがあれば製品開発における重要な拠りどころとして機能すると思う。
(製品コンセプトの重要性というものを言葉以上のものとして体で覚えていかなければならないな、と感じている今日この頃。あと重要なのはこれをちゃんとチームの間で共有する、ということ)
この記事にも似たようなことが書いてある。
最初にそのキャラができることをはっきりさせておくことで、ゲームが引き締まってくるのだと言う。そのために桜井氏が薦めるのが、キャラの個性をキャッチフレーズのような言葉にすること。たとえば、『ファイヤーエムブレム』からの参戦となるアイクは“Mighty Howling Blade(うなる剛剣くらいの意味)”などとすることで、キャラの個性をしっかりと把握するのだという。
製品開発におけるキャッチコピー。
たぶん業種や世の中の流行などに関係なく、普遍的なものだと思う。
2008年2月23日土曜日
錦織 vs ロディック
今日本で話題となっているテニスプレーヤー・錦織圭とアンディ・ロディックの試合が近くにあるSan Joseでおこなわれる、ということで知り合いと観に行った。
18歳らしい。
ロディックのピュアドライブを愛用?していた自分としては見逃せないマッチ(ミーハー)。
にしてもロディックは体が大きかった。
本当にでかい。
錦織よりかは一回りは大きかった。
試合内容は「力 vs 技」という感じ。
結果的には負けてしまったが、錦織もかなり上手かった。
男子テニスは「パワー一筋」でサーブでぽんぽん終わってしまいがちだけど、ストロークの打ち合いになると錦織の方が勝っていた気がする。
テニスを観るなんて本当に久しぶりだったけど、同じ日本人ということもあって試合中はなぜか自分もドキドキしてた。
「~王子」ってまた呼ばれるようになるのかね。
2008年2月18日月曜日
パルテノン神殿の謎
パルテノン神殿の特集をウェブ上でたまたまみつけた。
特集はパルテノン神殿がいかにデザインとエンジニアリングの極みに達しているか、ということにフォーカスしている。
実は柱がほんのわずかにカーブしていることや、ただ単に台を積み上げているだけでなくエンジニアリング的にも信じられないほどの精度で計算しつくされているということや、その他もろもろが詳しく説明されている。
パルテノン神殿は9年の年月をかけて作られた一方、現在も行っている補修工事は30年間も続いているらしい(そしてまだほとんど当時の形に復活できていない)。
それだけ古代ギリシア人の技術が今でも再現が難しいくらい、精密であったということだ。
パルテノン神殿は去年ギリシアに行ったときに見学にいったし、エンジニアリングに携わっている身としては色々と参考になるところもあり、特集も飽きずに観ることができた。
おすすめ。
2008年2月11日月曜日
In Napa
2008年2月6日水曜日
関西にいってきました
今週の日曜日から火曜日まで大阪-京都にいってきた。
日曜は、大阪で働いている友人と飲み(久しぶりに飲みまくって大変なことになった)、月曜日は大阪詳しい人に大阪案内してもらい(グルメツアー)、今日は一人で京都いってきた。
それで二日目の大阪観光について。
最初は阪神百貨店の名物(?)といわれているイカ焼きを食べにいった。
二日酔いで胃が持たれていたためキャベジンを摂取した後、イカ焼きを食べた。
なかなかおいしかった。
その後、梅田駅にある「元祖ミックスジュース」を飲みにいった。
一応これも名物らしいからそれも飲んだ(名物多いな)。
おいしかった。
でも、気持ち悪さ度合いは一気に増した。
ところでここの出店はプラスチックカップにジュースを入れてくれるんだが、そのリサイクルボックスが合理的にできててちょっと感動した。
穴があってそこにプラスチックカップを入れると、中でちゃんとストックされて、処理しやすくなるというシステム。
見た目も悪くない。
グッドデザイン賞にでてもおかしくない感じ。
一方、地下鉄の切符販売機はユーザビリティが悪かった。
スクリーンタッチで「切符購入」「何枚購入」とかいうボタンを押させるのにもかかわらず、切符の値段が表示されて押さなければならないボタンはスクリーン上のボタンではなくて、その下の実際のアナログボタン。
最初視線はスクリーン上にいっていてそこで行動を起こさせているわけだから最後までそのスクリーン上で行動を完結させるべきでしょ、スクリーンの下のボタンを次に押さないといけないなんて気づくわけないっしょ、等とぶつくさ考えながら「バッドデザイン賞」を勝手に与えてきました。
話を戻すと、次にオムライス発祥の地、北極星へ行ってきた。
ここのオムライスは安くてこれもうまかった。
というか今までオムライスは洋食とばかり思っていた。
その後いつの間にか気持ち悪さも消え、道頓堀→通天閣→串カツ→夜の飲み屋、と大阪を堪能してきました。
2008年1月28日月曜日
システムの科学 part 1
システムの科学
ハーバート・A. サイモン Herbert A. Simon 稲葉 元吉
コンピュータ科学、心理学専門でノーベル経済学賞を受賞しているなんでも一流の著者による本(初版1969年)。
そして自分が大学生の頃に所属していた研究室のバイブル的な本。
当時初めて読んだ(読まされた笑)のは大学4年生の時で難解であまり意味がわからなかった。
先日ふと本棚にほこりをかぶっているのを見かけてひっぱりだして読んでみた。
読み終わって思ったのは、この本は自分のやってきたこと、今やっていること、そしてこれからもやっていくであろうこと、に関して色々とヒントを与えてくれる、ということ。
もちろんその内容の全てを理解したわけではないし(自分のものにする、という意味で)、これからもこの本を読む度に新しい発見があるのだろうけど、研究室の指導教官がこの本をいつも引き合いに出してたのが少しわかった気がする。
内容は濃すぎて一度にここで書くことはできないけれども、この本は「デザイン」とは何なのか?ということを科学的な知見や経験から述べている。
ここでいう「デザイン」はもちろん見た目だけのデザインではなく、制度設計、製品開発、芸術、あらゆる「人工物」に関わる全て。
その切り口として著者は、「人間の思考」というものを取り上げている。
つまり人間の思考や問題解決能力を研究することによって、それがしいては「デザインの科学」「人工物の科学」につながっていく、と。
本書の中の大きな主張の一つとして以下がある。
1つの行動システムとして眺めると、人間はきわめて単純なものである。その行動の経時的な複雑さは、主として彼がおかれている環境の複雑性を反映したものにほかならない。たとえば、蟻が歩いた経路は複雑であるかもしれないが、蟻は単体としてみれば単純である(障害物にあたったら違う方向をみて動く、などなど。おそらく非常に簡単なプログラムに基づいて動いているものと思われる。もちろん蟻といえどその内部構造は複雑極まりないが)。
ここで蟻の経路を複雑にしているのは蟻が置かれている複雑な環境そのものであり、そこには岩があり、水があり、様々な障害物がある。
著者は人間の一見複雑極まりない「知能」というのも単純で「人工的」なメカニズムをベースとしているとする。
その複雑性は人間のおかれている環境にあるとし、その科学的知見を述べている(ここで誤解を恐れずにいうと、人間の思考は「人工的」であるとは言っているが著者はデカルトの機械論とはかなり異なる立場にあると思う。でもとりあえず省略)。
これを現在のインターネットの世界に照らし合わせてみると結構おもしろい。
Webの世界にはあらゆる知識や情報があり、検索エンジンを通して個は自身をエンパワーすることができるため、よくWebの世界は外部化された「脳」みたいなものだと言われている。
こういうことは確かに感覚的にはなんとなくわかるんだが、「脳」という便利な言葉で片付けている感がしていまいちすっきりしなかった。
サイモンの上の主張はそのまま今のWebの世界にも当てはめることができるとおもう。
Web上にあるページをインデックス化しているのは検索エンジンのロボットである。
その仕組みは複雑かもしれないが、これは人間がプログラムしているものであり、よって「人工物」であり、単純である。
一方、Web上の各ページを作成しているのはそれぞれの人間であり、その総数や書いてある知識は膨大かつ日々爆発的に増えており、複雑である。
すなわち、検索エンジンを行動主体としてみた場合、検索エンジンがもたらすその複雑な知的な行動(あらゆる情報があってそこから色々と引き出せる、という意味)は、結局はその検索エンジンの環境であるWebの複雑さがそれを反映しているだけであり、検索エンジン自体は単純である。
サイモンの仮説(もちろん当時はWebなどない)にたってみるとWebが「脳」というふうに言われる所以は確かに合っているのかもしれない。
まさに、「人間の思考」を考えることによってWebという人工物を少し理解することができる。
とりあえずの締めとして本書の引用を。
もしも私の主張が正しいとするならば、技術教育に関する専門的な1分野としてのみならず、すべての教養人の中心的な学問の1つとして、人間の固有の研究領域はデザインの科学にほかならない、とわれわれは大まかに結論することができるのである。
2008年1月9日水曜日
CES2008@Las Vegas
現在ラスベガスで開催されているCESに来ている。
昨日はPanasonicの基調講演に出席した。
主な発表製品は以下の通り。
- 150インチ・プラズマテレビ(実際にものをみるとその迫力にびびる)
- 超薄型プラズマテレビ(うすうす)
- YouTube, PicasaWebAlbumが見れるIPTV、北米のみ(日本でもほしい)
- Life Wall (なんかの映画でみたことある気がする。手をかざして壁に投影されているコンテンツを操作)
そして家電見本市ということでやはり全体として華やか。
- バイオリンを奏でる美女たち
夜はラスベガスのホテルでやっているショーを見に行った。
舞台施設にものすごくお金かかってそう。
なかなか迫力があった。
2008年1月3日木曜日
生物と無生物のあいだ
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)
福岡 伸一
分子生物学の歴史や著者福岡先生の実体験をもとに、「生命とは何か?」ということについて考察した本。
非常におもしろかった。
「生命とは何か?」という問いに対する答えとして、著者は「動的平衡」をあげる。
生物は実世界にいる以上物理的な制約下にあるため、システムのエントロピーは増大し、エントロピー最大の状態、つまり死(平衡状態)に向かっている。
しかし、生命は無生物のシステムが平衡状態になるよりもずっと長い間、エントロピー最大とはならず、成長し、秩序を維持し続けている。
それは生命がその秩序を維持し続けるために、その秩序を絶え間なく壊し続けているためである。
生命とは動的平衡にある流れである。生命を構成するタンパク質は作られる際から壊される。それは生命がその秩序を維持するための唯一の方法であった。しかし、なぜ生命は絶え間なく壊され続けながらも、もとの平衡を維持することができるのだろうか。その答えはタンパク質のかたちが体現している相補性にある。生命は、その内部に張り巡らされたかたちの相補性によって支えられており、その相補性によって、絶え間のない流れの中で、動的な平衡状態を保ちえているのである。つまり、我々を構成している分子は絶えず作られては壊され、その一連の動作が繰り返されることでエントロピー増大の法則に抵抗し、秩序を保っているのである。
それを可能にしているのはタンパク質自身のかたちであり、ジグソーパズルのピースが隣のピースが決まればすぐに決まるように、タンパク質もすぐにくっつくべき相手を見つけることができる。
また、生命は動的平衡状態にあり、「柔らかい」システムになっているため、柔軟に様々な変化に対して適応することができる。
つまり生命とはデカルトがとらえた機械としての生命とは一線を画し、その柔軟性、適応性が生命を生命たらしめている。
(本書の要約ここまで)
そしてこの「動的平衡」らしきものが生命に限らずあらゆる場面で見られる、というのがまたおもしろい。
例えば、「知能」。
従来の人工知能の枠組みでは、入力に対してある出力を出す、というプログラムを組むことでロボットを作ることになる。
しかし、この枠組みだけではゴミ収集ロボットさえ作れない。
ゴミ収集ロボットは、今自分がどこにいて、どこを向いていて、ゴミはどこにあって、などなどのあらゆる情報を入力とし、それに応じて行動を出力する必要がある。
複雑な環境下ではどういったことが起こるかというとロボットは、そういった情報をずーっと計算し続け、結局何もできない。
一方、人間は当たり前のようにゴミを拾い集めることができる。
そこでは膨大な計算は少なくとも意識化ではなされておらず、我々は柔軟に対応している。
知能は機械などではなく、「融通無碍」(←今朝の読売新聞にあった用語。わかりやすい)な何かである。
もう一つの例として、社会におけるイノベーション(最近はWeb 2.0と同じようにマーケティング用語化している感じだけど)がある。
従来の経済学では、経済の均衡状態すなわちエントロピー最大の状態を考察している。
しかし、経済活動はそのような均衡状態に本質的な意味があるのではなく(これは生命に当てはめれば死の状態である)、エントロピー増大の法則に抗う力にこそ意味があると思う。
その力の一つが、経済の秩序を壊しそして経済の秩序を維持し続ける力としてのイノベーションだと思う。
(アマゾン、グーグル、アップルのiPhoneなどと次々にその力が海の向こう側で起こり、日本では最近起こらないのが残念だけど)
その他にも、音楽における秩序、芸術における秩序、人間関係、しいてはニコニコ動画の流れるコメント(?)と色々と「動的平衡」らしきものをあげることができる。
世の中のあらゆる分野でそれが「いかにあるか」「いかにあるべきか」という問いには、重要な「何か」が共通して存在し、その一つが本書にある「動的平衡」なのかもしれない。
2008年1月1日火曜日
佐藤可士和の超整理術
2008年です。あけましておめでとうございます。
佐藤可士和の超整理術
佐藤 可士和
この本、一気に読み終えた。
著者の佐藤可士和氏はアートディレクターであり、氏の考える「整理術」がわかりやすく書いてある。
本書はいわゆるHow to本ではなく、あらゆる問題解決の場面での根本としての、いわば氏の技芸といったものが記してある本、というイメージ。
著者が「対象を整理して、本質を導き出して形にすることがデザイン」といっていることからも、本書における「整理術」というのは小手先の整理とは違う、まさに「超整理術」である。
大学にいた頃に研究論文を書くという作業を通じて曖昧ながらも感じていたことや、今の仕事にも通用するものがあり、頭の中が「整理」された。
本書は著者の本業であるデザインに限らず、様々な職種に対しても参考になると思われるが、自分が現在たまたま仕事としてデザインに関わっているということで、デザインという切り口から思ったことを書いてみる。
以前、同僚と「デザインは論理かそれとも感性か」という話をしていたことがある。
この問題を考察する上で参考になる実例が本書にはたくさんあった。
例えば、発泡酒の「極生」。
当時発泡酒は、「ビールの廉価版」というネガティブイメージがあり、業界は価格競争にもまれていたが、著者はそのマイナスイメージ(「ビールの廉価版」「コクが足りない」)をポジティブイメージ(「カジュアルで現代的な飲み物」「ライトで爽やかな飲み口」)に転換してとらえなおした。
そしてキリンの発泡酒の名前を「極生」とし、新たなイメージに沿ってパッケージデザインをシャープなデザインに仕上げたことで結果的に「極生」がヒット商品になった。
この例からわかるのは、何も天才画家がその人の感性に従って作った、他の人にとっては全く理解不能な、でも美術館でなぜだか恐れ多いものとして展示してるあるような画としてのデザインとは全く異なるという意味で、(プロダクト)デザインの中に占める論理の割合は非常に大きいと思う。
そのようなデザインになっているのは筋道だった意味がある、という意味においても。
また、「極生」とは別の話だが、直感的で使いやすい優れたUser Interfaceを提供する、というのも論理が大きく関わる部分だと思う。
一方、著者は対象を「優れた視点」で捉えられるか否かというのが、問題解決への分かれ道になるということを述べている。
そしてこの「優れた視点」は、クライアントとの対話、現状分析、などなどといったことを通じて見つけることになるのだが、まさにここが、その人の感性が問われるところだと思う。
「コクが足りない」を「ライトで爽やかな飲み口」に捉えられるかどうかは、その人の感性である。
明確な課題を洗い出した上でそこから具体的なデザインに仕上げることができるかどうかもその人の感性。
このことはデザインに限った話ではなく、学術研究においても当てはまる。
何か仮説を立てて、それを信じて筋道だって論じていく。
この仮説がまさにその人の感性が働くところになるわけだが、その仮説の立て方が運命の分かれ道。
自分の立てた仮説に従って、論理立てて議論を進めた結果、何年も後にそれは間違った仮説であった、研究成果としては何も残らない、ということなんて十分ありうる。
結局、デザインとは論理であり感性であるのかもしれない。
また、本書の最後にある、
問題解決のための手がかりは必ず、対象のなかにあります。優れた視点で対象を整理すれば、解決に向けての方向が明確になる。答えは、目の前にあるのです。という記述は興味深かった。
本質は、プラトンのイデアのようにどこか別の世界にあるのではなく、その対象そのものに内在しているというアリストテレス的な世界観。
ただし、こういった話を「デザイン」(見た目としてのデザインのみならず、工学などのデザイン問題)に明確な自分の考えをもってしてとらえるのにはまだ頭の中が「整理」しきれていないため、とりあえず今の段階では頭の片隅にとどめておくことにする。